今、そこにいる僕
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(No.1582) エリ 題名:すいません、女性蔑視について書くってこの前書いたのに 投稿日 : 2000年1月26日<水>00時21分
すいませんしばらく忙しくって掲示板見てないエリです。(ここってちょっと見てなくてもしばらくになる)すいません今余裕なくて・・・うまく話まとめられる自信ないんです。ちがう作品でなんなんですが、今「心理探偵フィッツ」見てました。こちらも「レイプ」の話なんですが、さらに重い〜〜(T_T)ああ〜〜 やられた相手を殺っちゃったのかーー!ペンハリガンさん!!!でもこっちの作品はそんなに感情移入してないから(暗い話だって知ってたし)今僕とは違う意味で動揺はしてないけど、でも私を完璧鬱モードにしてくれました。ああ〜〜やっぱりアニメには「夢、希望」は忘れちゃいかんです!!つくりものの世界だからこそ!
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(No.1583) 佐藤@komaba 題名:作品内の私は「中絶しなければならないときもあるのでは?」と思う? 投稿日 : 2000年1月26日<水>00時47分
 Mine氏がプロパガンダという言葉について考察を
行っていますが、私あまりプロパガンダという言葉を
使ったことが無いんですよ。辞書だと宣伝とかいう
意味らしいのでそういうことで進みますが。
で、Mine氏は
>ではこの 作品で、 視聴者にはなにもプラスにな
>るような事はなかったのですか と問いたいです(T_T)

というわけですが、これをうけて少し考えてみました。
 私はまだ12話までしか見ていないので、最後の展開
を見ておらず、それについてなにか述べると言うことは
避けますが、少なくとも作品に入っている私は11話においては
「サラが中絶してもそれを責めることはできないよ」あるいは
「人間は中絶した方がいい場合もあるかもしれない」
ってしみじみ感じたものです。仮に最後にサラが産むことを、決意
したとして、それが如何に安直であろうと、あるいは
「やっぱり命は素晴らしい」とか最後におもったとしても、
それでも、私は既に
「中絶すべきときもあるのかもしれない」
ということを自身の問題として感じたのは確かなのです。
そういう事を一度でも感じ、そしてそれはずっとあとまで
直の手触りのようにのこるものであり、その意味合いでは
仮に制作者がどういう意図であったとしても、少なくとも
作品世界に入り込んだ私にとっては、このアニメが
「中絶反対派のアニメだった」あるいは「中絶反対派のプロパガンダだ」
なんてことはない、と断言できると思うのですね。そして
私はここのログを読む限りでは、かなり多くの人も一度は
そういうふうに感じているのではないかと思う部分もあるのです。
 (そして、私はそういう考えを手触りあるものとして
得ることこそフィクションを見る上での一番大事な
事だとおもっているんですよ。)

ところで、ここではプロパガンダというのは、
「見るものにその思想を植え付け何ら疑いを抱かせ
ないような宣伝方法」という意味で使っています。
ですから、中絶反対に対して「本当にそうかな?」と
いう疑問を一度でも植え付けてしまったこの作品は
、結果として作品内にいる私にたいしては
中絶反対のプロパガンダ足り得なかったともいえそうです。

 もっとも、作品の外にでてきたら、tomoki氏や他の方が述べているように
「ああなんて都合のいい話だ」と思うのかも知れないですが。でも
作品内で「感じたこと」というのは恐らくずっと残るだろう
とおもうんですね。

ですから、作品内に一度は住んだことのある私も
Toshi-yk氏が「余計なこと・・」で述べたことのような
感じを抱いたかもしれないんですね。
 ところで、氏はもう引っ込むとかいっていますが、
隠遁なんぞせずに元気にかいてほしいものです。
ここをずっと読んでいるせいか井戸端会議の
茶飲み友達が減ったようでなんだか寂しいですよ。
ただ、時々難しすぎる言葉を使うので、ちょっと読
むのに難儀するのが玉に瑕ですが・・って私がいっ
ても説得力ないですな・・・。

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(No.1584) ゆあ 題名:今、そこにいるのは… 投稿日 : 2000年1月26日<水>00時56分
どちらの世界が現実だろう。おそらくどちらも現実。
本当にいるべき場所にもどるのは非現実なのかもしれない。
いや…きっと大丈夫だ!なんとかなる。大丈夫だ!

素晴らしい作品を拝見しました。ありがとう。
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(No.1585) MINE 題名:ありがとうございましたーm(__)m(^_^) 投稿日 : 2000年1月26日<水>01時31分
:佐藤@komabaさんへ
>作品内の私は「中絶しなければならないときもあるのでは?」と思う? 投稿日 : 2000年1月26日<水>00時47分

 なるほどー(^_^)。 13話まだですかー。 うーん、ここのBBSはもー最終話までできあがったってことで 内容バンバンでてますから大変(どう?)ですよねえ(T_T)/  かくゆうおいらも バンバン出してますががが(ちゅどーん)

 おいらも同感です(^_^)

 以前の書き込みに キャラへの親近感うんぬんで「ないです。まったくってわけではないですが〜」っていうのがありましたが。 割り切っている自分とどっぷりな自分がいるようで 佐藤さんに近しい部分あるようです。(^_^)
 制作サイドにたって観ているのと、キャラ視点で観ている、 結局これも「せめぎあい」のひとつなんでしょうが、 まあ そこから「なにか」感じる部分は生まれるのでOKOKかと(^_^)

 今思うと ちょときついテキストだったような気がします。 佐藤さん申しわけ有りませんでしたー(^_^)m(__)m


http://www.ceres.dti.ne.jp/~mine-
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(No.1586) りま 題名:教えて下さい 投稿日 : 2000年1月26日<水>02時19分
初めて書き込みします。
最近ここの存在を知ったのですが、皆さんに教えて欲しいことがあります。

何故、ハムドはキチガイに描かれなければならなかったのでしょう?
ハムドがキチガイである、(作品の構成上に於いての)明確な理由とは?
更に、そのキチガイを大将に据えている理由とは。
特に異能力があるわけでもなく、ただ単に他人より”秀でている”程度のキチガイをトップに据えている理由が判りません。


もう一点。
何故、サラはレイプされたのでしょう?
サラと言う特定の個人がレイプされたと言う事実は、(同じく、作品の構成に於いて)どういう意味があったのでしょうか?

以上の点がどうしても理解できません。
ハムドがキチガイであると言うことと、
レイプされた対象をサラという特定の個人に(演出上)してしまったことで
この作品のテーマが非常にボケてしまっていると思うのですが。

ついでに。
サラがレイプされたという事実に対しての救済は?
妊娠と言う新たな事実が出てきてしまったためにぼやけてしまっていますが、
レイプ、そして殺人、という事実に対しての救済が描かれていなかったと思うのですが?

過去ログをチェックしていないので、同じ様な発言があったらごめんなさい。
あまりにも膨大すぎるので。
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(No.1587) TREBLE 題名:今僕感想2 投稿日 : 2000年1月26日<水>07時52分
MINEさんご返事どうも。
>生命の問いの助長のため
なるほど。ちょっと難しい答えですね。地球の誕生からなら百億年経っているかもって誰かが書いていましたけど・・・
 
 サラの問題で盛り上がっている様ですけど、個人的には、アニメ上で「中絶」って言葉を使いづらかったんじゃないかなと思います。シスはサラにとってみれば第三者なのでさすがに口はさめないし、シスとカザムが目の前で死んだのでちょっと感情的になって冷静さを失っていたのかも、だからシュウが帰ったあと(正確にはアニメ終了後)なら中絶という選択肢も冷静に考えたらまだ残っていると思います。

>りまさん
個人的な見解でよろしければ・・・
>ハムドはなぜキチガイなのか 
まともな神経じゃ大量虐殺や侵略なんて考えないからじゃないですか?トップにいるのはヘリウッドの所有者だからかも、ボンボンかも(これが一番有力かな)
>サラについて
この作品のコンセプトはシュウやサラの様な子どもが、ああいう世界に放り込まれたらどうなるかという所で、そこからストーリーを組み立てた様です。
あんまり説明になってないですね。                                    
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(No.1588) toshi-yk 題名:あんたの言葉はみんな嘘1 投稿日 : 2000年1月26日<水>07時59分
 「プロパガンダ」という言葉を軸にした議論がまだ続いているようですが、Tomokiさんとの意見交換がどうもすれ違いに終わった感じの原因を先ごろようやくつかんだ感があるので、自分の責任をよりはっきりさせながら説明したく、この問題にはもう触れないと書きましたが、もう一言いきます。

 そもそも、プロパガンダという言葉を最初に使ったのは、僕です。気田さんの「女なんて、ガキ生んで、育てるための生き物だって思ってるんでしょ」という「今僕」、あるいはその製作者への批判を「「今僕」が中絶反対のプロパガンダを目的にしている」という批判と理解し置き換えて、そうではないということを別選択肢の描写を例に挙げて説明して、気田さんの意見に反論したのですが、その後の推移から考えるにこの置き換えがまずかったのでしょう。ともあれ、最終的には出産への決断を描いたとしても、別の選択肢を、そうした女性への複数の対応(堕胎を勧める(医師)、本人に任せる(シス)、とにかく出産を勧める(シュウ))を、何よりも中絶を願うサラを描くことで、中絶も視野に含めた選択の結果としての決断を描いていることを評価してもいいのではと思ったのです。佐藤さんが書かれているように、僕も第十一話を見たとき、シュウの言葉に共感と反発の双方を感じつつ、ともあれ一方で生まれてくる命が幸せになり、生んだものも幸せになりうる可能性を、他方で状況による中絶の正当性を、双方を改めて確認したものですから。その上でどちらを選ぶかはまず本人の権利・責任であり、助言をするなら責任の一部を分担する(荷の一部を負う)覚悟のもとに助言をする、と。確かにTomokiさんが強調されるように現実において中絶反対派が暴力で自己の信念を強要していること、また、「今僕」においては、サラに翻意のきっかけを与えたシスが死にゆく人であり、サラのこれからの荷を分け持って負うことが出来ないという点には、留意が必要でしょう。「生んでくれ」という強要ではなく、生むにせよ堕ろすにせよ子供を恨まないでくれということかなとも思います。その先はサラの判断。僕が感じ取った決断の理由は今までに書いたとおりです。

 ともあれ気田さんへはもとの言葉への批判を改めてしておいたのですが、「プロパガンダ」という言葉で、意図していなかった相手であるTomokiさんが釣れてしまい、僕としてはTomokiさんがコナンさんの「これって妊娠中絶反対派のアニメだったの?」という批判(これは作品の期待外れさかげんに対する揶揄なのでコナンさんも僕の批判の対象外でした)に「たしかにそうですね」という書き込みで賛同を示し強い作品批判をしていたことへの曖昧な印象だけが残っていたので、「プロパガンダと見られても仕方がない」という表現に多少の引っ掛かりを覚えつつも、「ああ、この方も「今僕」を中絶反対意見の押しつけ=プロパガンダ目的だと・・・」ととりあえず理解し、言論の自由は認めつつも、こうした作品批判とはレベルの違う批判に関してはなるべくなら翻意を促したかったこともあって、気田さんへのレスとまとめてしつこく同様の反論を提示しました。
 
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(No.1589) toshi-yk 題名:あんたの言葉はみんな嘘2 投稿日 : 2000年1月26日<水>08時03分
 帰ってきたレスを読んで話がすれ違っている感じを受けつつ「しつこいようだけどこれで最後」で言い訳、相変わらずの批判、Tomokiさんの作品理解の限定つきの容認(偉そうですが他意はありません。激烈な批判そのものを禁止するように受け取られていたので。確かに語調が強すぎると思ったしもう少し高い評価を与えてもとも思いそうしたことも書きましたが、そこを無理に翻意を迫るのは論外なので)、並びに是非問わぬ別見地の提示、と一通りのことは伝えたつもりですが、互いの意見の相違を理解しあったうえでの両論併記には程遠い、すれ違いに終わった感は否めませんでした。すれ違いへの苛立ちから揶揄めいたことも書いてしまったし。
 その後Tomokiさんの「たしかにそうですね」を見返すに、どうやらコナンさん同様、「今僕」の(彼から見た)出産決断の説得力の無さを中心とした出来の悪さのために、「結果として唐突な印象の出産決断しか残らなかった=ただ無自覚に出産を肯定しているだけのプロパガンダと見られても仕方がないように思える」という見方だったようです。ここに気づいてTomokiさんの意見の一貫性が理解できました。今思うに気田さんもこうした見方だったのでしょうか。こうした見方に対して「プロパガンダだと主張する論拠を」と要求しても積極的なものが出てこないのは当たり前でした。僕はプロパガンダであるという論拠の説明を執拗に求め、Tomokiさんは妊娠決断の説得力の無さを言い募る。ようは意図的な中絶反対プロパガンダと失敗作の残存部分としての中絶反対プロパガンダという、捉え方の違いですね。いずれプロパガンダという言葉が独り歩きしてしまっていた感があります。おそらく向こうも「この人はいったい何を声高に言っているんだろう」と思っていたのではと考えると、またも恥フラッシュバックのネタ一個追加です。それに他の方(特にMINEさん)を巻き込んでしまった感があるので、ただいま反省中です。

*********** 
 >佐藤さん
 お気遣いありがとうございます。ただ僕としては、反省と忙しくなることもあって「少し控える」ということで、Tomokiさんへのレスのタイトル中の「最後」というのはプロパガンダについて触れるのがです(嘘になりましたが。シュウの気持ちが・・・)。数と量は減るかもしれませんがこれからも書きたいことがあって楽しいものであるかぎりは掲示板への書き込み自体は続けていくつもりですから、どうか今後もお付き合いのほどを。

>MINEさん
>いや それはいーとして 安原さんって結構美人(゜o゜)!(ってみえたんだけどおうう)

 同感です。ああ、たまにはこうしたどうしようもないことに同感するのも、堕落してんだかリラックスしてんだか分かりませんがいいものです。その番組は見てないんですが「子守歌」の宣伝映像を見るに。

>NASTYさん
>小説などで言うところの”行間を読ませて”いるのでは無いかと感じました。
>オイラは現時点ではその行間まで慮った上でサラのあの最終的な決断を描いたスタッフを評価したいと思います。

 同感です。加えて簡にして要を得た表現、恐れ入りました。
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(No.1590) toshi-yk 題名:あんたの言葉はみんな嘘3 投稿日 : 2000年1月26日<水>08時06分
>りまさん
 あなたの疑念は僕も共有するもので、前からその点については散々考えてきました。その結果ハムドについては、始めから基地外だったのに指導者になれたのではなく、「末期症状の集団における、猜疑心と恐怖で破綻寸前の指導者」を描いているものと理解しています。ようはシュウが来た時点で既にヘリウッド並びにハムドは破綻寸前であり、それを示すものとしてまずあからさまなハムドの錯乱、アベリアの逡巡、そして四話から六話の間のどれかでララ・ルゥがアベリアに言った「私はここを滅ぼすつもりはない・・・そう見えるのは、あなたがここにある滅びから目を背けているから」というセリフがあります。これはララ・ルゥが例えばラピュタのシータのような普通の人間とは違い、巨大な人外の力を身体レベルで所有していることへの暗示でもあったんでしょう。「滅ぼすことも出来ますよ」と言いたげですし、実際滅ぼしましたし。
 
 サラのレイプについては、作中の意味としては国策による出産の強制。ひいては一般的生活と類比して、強姦され妊娠した一女性の選択を描く。国策としての出産・育児強制を描いているんだから、同じように性交、出産を強制されるほかの女性をもっと描く必要があったのでは、とは僕も思います。一応アベリアの「現在十二人が妊娠中です」、シスの「ここ(ザリバース)にはそんな女が大勢いる」というフォローはあるので、いいのではともおもいますが。演出上サラ一人に絞ったのは「今僕」の特徴である個人描写の徹底のためではないでしょうか。(異論がある方も多いですが)作品中の状況・経験に基づいた選択としては、まるきりではないにせよ個人的には納得できましたし、感じるものはありました。

 あと、「救済」という言葉でどうしたものを求めておられるのかちょっと計りかねるのですが、レイプにせよ殺人にせよ、サラがその経験を完全に浄化できるような説明を作中で与えるのは非常に困難でしょう。むしろ、「傷があっても笑うことは出来る」ことの方を僕は大事にしたいと思っています。

>エリさん
>やっぱりアニメには「夢、希望」は忘れちゃいかんです!!つくりものの世界だからこそ!

 「いや、それは違う」とか正論をかましたいところですが、シュウが潰されてしまった場合の「今僕」の展開を考えるに・・・やっぱりエンドはとりあえずハッピーだったり、シュウが一人帰って、置きざり剣道具、ずっと小さい夕日で寂しかったりでいいものでしたし。まあ例えば僕にとっては映画エヴァのラストも希望あるハッピーエンドだったりするし、それぞれ基準は違うでしょうけど。
 
********
「戦場のメリークリスマス」を見ました。デビッド・ボウイと坂本龍一が(こちらは発声に問題あれど)かっこいい。「エヴァ」から「愛と幻想のファシズム」(村上龍)、「電波オデッセイ」から「夜と霧」(これはユダヤ人の精神科医ヴィクトール・E・フランクルが第二次大戦中の収容所体験をつづったドキュメントです)、「戦メリ」と、好きな作品をつてに別の好きになる作品に出会えるというのはいいものです。意図的にインタビュー、記事系を避けていたから分かりませんが、「今僕」でもそうしたものはありえましょうか。
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(No.1591) KIKO 題名:Re:行間 投稿日 : 2000年1月26日<水>14時27分
おじゃ、むぅ・・・。

「おじゃる丸」は今のところ放映話数が180話で、さらに第3期が作られているというのに、同じ監督であれだけ深い内容を
(「おじゃる丸」も時々深い内容だったりしますが)
描いて、しかもあれだけ期間が短いとはほとんど反則技のような気がします。

それはそれとして、
>NASTYさん

>敢えてそういった表現を用いて我々視聴者に、小説などで言うところの”行間を読ませて”いるのでは
なるほど、そう考える事も可能ですね。
むしろ逆に、話数が少なかったからこそ、行間を読ませる手法が効果的であったと言えるわけですね。
(話数が多ければ多分説明の描写を入れたでしょうから)
使われていた表現、テーマ、放映局のことを考えると、初めから行間を読める(はずの)大人を対象に作られた作品であった
ことはもはや明白ですが、「アニメだから複線ははっきり読み取れるもののはずだ」と考えていた僕は、まだまだ修行が
足りないようです。
これからは心してアニメを見ねば。

人命関係という事で少し。
今週の月曜日(1月24日)にERを観ました。
主人公のカーター君が、重傷のレイプ犯に対し普通の輸血を行わず、量が足りないかもしれない自己血輸血を
行っていましたが、これもサラのケースのように理性・感情・人道などの複雑に絡み合うケースで、
「自分がカーターの立場だったらどうするだろう」と考えさせられました(結論は出ていませんが)。

ERは1stシーズンから見ているのですが、毎回毎回深く考えさせるテーマを扱っていて、
「今僕」・ERを連続してみたりすると頭がパンクしそうになります。
たぶんここの掲示板を見たり書き込んだりしている方々はERを知っておられると思いますが、もし観たことがなければ
是非1度だけでも観てほしいと思います。ここの方々ならきっとハマると思います。
(もう誰か宣伝していたりして)
注:僕はNHKの回し者でもありませんし、NBCの社員でもありません。

なんか本来の書くべき事とは少しずれているようにも感じますが・・・。
まぁ、いっか。ERの宣伝が出来たし。
それにしてもほんと、ログが流れるのが速いですなぁ、ここは。
同じようにロムってるセガBのその他も速いけど。
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[ ログNo.1582〜No.1591 ]

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